とさでいず

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幡多十景を求めて 幻の幡多十景「有岡城趾居部正」を探して

こんにちは、Hiroです。 

 

4月27日の記事で、昭和28年(西暦1953年)11月16日に高知新聞社が主催となって読者投票で選定された幡多十景をリストアップしてみました。

 

www.tosa-days.net

本日は幡多十景のうち、すでに失われた景色。

四万十市の有岡城趾居部正を紹介したいと思います。

 

 

 

 

四万十市とは

高知県西部の中心都市で、高知市、南国市に次ぐ高知県第3の都市です。
中心街となる中村は平成の大合併により中村市だったエリアとなります。

中村の始まりは1468年(応仁2年)9月、応仁の乱で土佐に下った一条教房が、海路土佐に下向し、幡多荘に入ったことから始まります。

その後、幡多荘の中心となっていた中村に邸宅を構え、中村館、幡多御所などと呼ばれたことから、現代も四万十市の中村は土佐の小京都とよばれています。
1946年(昭和21年2月21日)の南海地震で市街地が被災したため、古い町並みは殆ど残っていませんが、大文字焼きなど色々な風習が残っています。

 

 

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出典:はた旅|四万十・足摺エリア

 

四万十市有岡とは有岡の歴史

1889年(明治22年)4月1日に施工された町村制より以前、幡多エリアに存在していた「有岡村」が地名の元になっています。

現在は四万十市の南西端で、四万十市の市街地から国道56号線を西に走ると、宿毛市に入る直前にあるのが有岡です。

公共交通手段としては土佐くろしお鉄道の有岡駅があります。

ちなみに幡多十景の制定された昭和28年(西暦1953年)には、有岡に鉄道は開業されておりません。

また、国道56号線は当時国道197号線となっていました。

 

1889年(明治22年)4月1日に施工された町村制により、有岡村・横瀬村・九樹村・上ノ土居村・磯ノ川村・生ノ川村の区域をもって幡多郡「中筋村」と名称が変更。

その後、1954年(昭和29年)3月31日に中村町・下田町・東山村・蕨岡村・後川村・八束村・具同村・東中筋村・富山村・大川筋村と合併して中村市が発足。

平成の大合併により2005年(平成17年)4月10日に中村市・幡多郡西土佐村が合併し、現在の四万十市に至ります。
 

 

 

幻の幡多十景「有岡城趾居部正」

結論からいうと、当時の有岡城趾居部正の幡多十景は、現在は見ることができなくなっています。

 他の十景はそれなりに神社であったり、観光スポットとして残っているところが多いのですが、有岡城趾は幡多十景に指定されて時点で既に城址と記載されています。

そこから分かるのは有岡城の城跡で、居住部の前面が景色の良い場所だったと推測される程度です。

 

有岡城趾を調査する

現地調査

昨年(2017年)のこと、「城跡」というくらいなので地元の方に聞けば、場所くらいはみつかるだろうと私は有岡に向かいました。

 

 

しかし、地元のお寺「真静寺」の住職に聞いてみたところ、有岡に「城なんてないし、聞いたこともない」という言葉が。

その後、交番や四万十市の観光協会で確認しても場所は「看護学校のある山らしい」という情報しかありませんでした。

看護学校の事務所にも足を運び、受付の方に確認してみたのですが、これと言って情報はなし。

結局、有力な情報も得られず少し休もうと国道脇の喫茶店「かうひい亭」に立ち寄り、マスターに城跡の話をしてみたところ、少し有力な情報を得られました。

 

「詳しい位置までは覚えていないが、たしかに子供の頃に山の上に上がれる場所があった」

とのこと。

地元の年配の方なら知っているだろうと、次回訪れるときに聞いてみておくと言っていただき、その日は帰宅しました。

 

 

資料調査

その後、しばらくは有岡を訪れることがなく、空いた時間に四万十市の図書館で情報を仕入れることに。

 

そして、やはり看護学校の東側の山にあるということが分かりました。

 

 

実際に調べた資料はこちらです。

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昭和10年に発行された「土佐国古城略史」という古書。

著者は「宮地森城」氏。

 

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57ページに確かに有岡城の記述があります。

城主、有岡安房守。

或曰(あるひといわく)、地頭民部少輔(じとう みんぶのしょう)

とあります。

有岡安房守の城で、位は地頭民部少輔ということですね。

村の北の背にあって、鷹城と呼ばれていたようです。

ここには記載がありませんが、長宗我部元親の土佐平定の際、四万十川の戦いで中村の一条氏が破れ、その後に降参したという歴史があるようです。

これで、実際に有岡城が存在していたということはわかります。

実際に詳しく読んでみたい方はこちらもどうぞ。

国立国会図書館デジタルコレクション - 土佐国古城略史 : 附・御城築記

 

場所については知人を経由し、四万十市中央公民館の生涯学習課に確認していただいたところ、マップのこのあたりになるようでした。

 

 

 

 

 

実際に有岡城趾を訪れてみる

資料の確認などで、どの山に城跡があるかは確認したのですが、どこから上がって良いのかわからず、再び有岡を訪れたのが2018年の4月のことです。

 

前年に情報を尋ねた喫茶店「かうひい亭」のマスターの厚意で、地元の詳しい方に電話で直接確認をしていただくことができました。

なんでも、団地の上の貯水タンクに登る道から上がったところに祠(ほこら)が残っているらしく、そこが有岡城の跡になるということです。

 

早速、現地にアタックします。

 

 

実際に有岡城趾への道

情報によると、有岡城趾は集落の北側にある山の斜面に位置する団地の上にあるとのこと。

 

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 団地の上に登ると上に貯水タンクが見えますので、まずはそこを目指します。

左に曲がって坂を登ると、看護学校がありますので通過し、右折して貯水タンクの方へ登っていきます。

 

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f:id:hiro-ride:20180508011958j:plain一番奥はこのように貯水タンクがあります。

しかし、貯水タンクまで登ってしまうと、城趾に登る入り口は通り過ぎています。

 

 

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 実際にはここが登り口です。

右奥が貯水タンク。写真の赤い矢印の方向に細い山道を登っていきます。

この道は整備されていないので、山上に有岡城跡があると知らなければ道があることすら気が付かなかったとおもいます。

 

駐車場はないので車でお越しの方は注意しましょう。

 

 

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少し登ると林間の道に入ります。

落ち葉が非常に滑るので、トレッキング用のポール(ストック)があったほうが安心です。

また、事前情報によると山にはマムシがでるとのことで、夏場は控えるかポールを使い蛇にこちらの存在を知らせるなど、出会い頭に噛まれることがないよう対策を行いましょう。

 

 

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数分間、少しつづら折りの山道を歩くと、すぐ上に祠が見えてきました。

 

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ここが有岡城趾の場所になります。

祠とその周りはきれいに整っており、小さな広場のようになっています。

 

祠の裏には「民部正」と掘られた墓石のような碑があります。

 

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広場の外は木々が茂っているので、期待していた絶景を見ることはできませんでした。

 

幡多十景「有岡城趾居部正」イメージ

実際の幡多十景「有岡城趾居部正」を見ることが叶いませんでしたが、少しでも当時のイメージできるよう、祠までの山道から見える景色をできるだけ景色が見えるよう、できる限り写真で切り取ってみました。

 

 

 

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まずは有岡城の西側をHDR撮影した6枚の写真をパノラマ合成した写真です。

有岡の集落より北西側にある水田地帯。

画面中央ほどにみえる緑色の2つのベルトは四万十川に注ぐ中筋川の支流、横瀬川(手前)と山田川(奥)。

奥の山は四国八十八箇所霊場や39番札所「延光寺」や更に奥の宿毛の山々です。

 

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こちらは南の景色。

土佐くろしお鉄道の線路や中村宿毛道路を見下ろすことができます。

左下に大きく見える建物は中筋中学校です。

 

まとめ

いかがでしたか。

実際に有岡城跡の周囲の展望が開けていたとすれば、これより更に10m以上高い位置からこの景色を見下ろすことができたはずです。

 日没頃には、山々を赤く染める夕日と水田に映り込む空が、本当に印象に残る景色だったことでしょう。

幡多エリアの内陸部は、簡単にアクセスできる展望の良い場所と考えると、実はそう多くありません。

かつて幡多十景だったこの場所が、完全に忘れ去られてしまうことがないよう、行政が少し対応していただけると良いのですが、財政の苦しい自治体ですから簡単には行かないでしょうね。

せめて、私がブログに残したことで、誰かの記憶に幡多十景の面影が少しでも残すことができたなら幸いです。

 

それでは。